単発: トラペザスの戦い

1405年11月末。
ブルガリアが、トラペザスでの野戦においてルーム・セルジューク朝のスルタンを捕縛した。

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これによって、ルーム朝のグルジアへの侵攻は阻止された。

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戦争の経緯

さかのぼること2年前の1403年、ルーム朝がグルジアのカルトリを求めて聖戦を仕掛けた。
ビザンツの封臣であるブルガリア王は真っ先に救援を表明したが、ビザンツ本体が加勢したことで参加国から外されてしまった。

  • グルジア: 8千
  • ビザンツ: 3万 (本来は5万だが、消耗中)
  • ルーム朝: 2万8千 (うち、傭兵1万8千)

どうやらルーム朝には家臣化した傭兵団がいるらしい。
重歩兵と騎兵で構成された2万の精強な軍隊。
数も質も脅威だが、なにより、赤字になっても反乱を起こすことがない。
召集の資金さえあればいいのだ。
たとえ戦争中に赤字になっても、戦後の賠償金で取り戻せる。
そのおかげで、カトリックの十字軍でアナトリアを奪われ、イルハン国(仏教)に東から圧迫されてもしぶとく生き延び、ついにはアナトリアを奪還した。
カトリックの多すぎる宗教騎士団と同じく、はっきり言って反則だ。

グルジアはルーム朝とイルハン国の双方から攻められて60年前に滅んでいたが、ビザンツイルハン国に対する「グルジアの宗教的解放」を名目にした戦争によって復興していた。
ただし、以前のバグラチオン朝ではなく新興の家系。
すぐさまイルハン国の封臣に攻められたが、ビザンツが加勢して撃退した。
この防衛戦でビザンツが極度に消耗したのが影響したのか、ルーム朝もグルジアへ侵攻した。

ルーム朝の傭兵の強さは圧倒的で、戦勝点はマイナス70%に。
しかし、攻城戦によって傭兵も消耗し、ルーム朝全体で1万8千になっていた。
ブルガリアの動員数は3万2千。
これなら傭兵相手でも勝てるかもしれない。 しかもよく見ると、グルジアは千にも満たない弱小の冒険者からも攻められている。
大義名分が立って家臣の不満を抑えられるのでので、この冒険者への救援を名目に派兵を決定。

すると、ルーム朝も同盟国のマムルーク朝(バイバルスのブンドクダーリー朝)に助力を頼んだ。
マムルーク朝も、やはり反則級の2万の傭兵団を持っている。
両者が合流する前に各個撃破すべく、船を使ってすみやかにビザンツ領のアブハジアへ上陸。
その後、グリアの戦いでルーム朝を、次いでトラペザスの戦いでマムルーク朝を撃破することになる。

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グリアの戦い

圧倒的な勝利だった。
近くにいたビザンツ軍が察して合流してくれたおかげだ。
同盟勢力の青色表示ではなく中立の灰色表示なのが不安だったが、同じ側の勢力として処理されて、総勢5万弱の兵力で敵を粉砕した。
ブルガリアの消耗はほとんどなし。

ふと見ると、すぐ南のルーム朝の首都トラペザスをグルジア軍が囲んでいるが、そこへマムルーク朝軍が迫っている。
神速のオーガナイザー特質を持つ将軍ですぐさま救援に向かわせた。

トラペザスの戦い

予想を上回る大苦戦。
3人の指揮官がみんな討ち死にした。
貴重なオーガナイザー持ちのモルドバ公爵も…。

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指揮官がいなくなったこと、そしてもともと数が少なかったことで左翼が崩壊。
ただ、中央は意外に持ちこたえてくれている。
しかし、戦闘の経過を眺めながら暗い気持ちになっていた。
この戦闘に勝っても、次はルーム朝とマムルーク朝が合流するはず。
これほど消耗した状態では次は勝てない。

そんな中で届いた、スルタン捕縛の知らせ。
マムルーク朝主体の中にルーム朝も少数が混じっていたということか。
この僥倖に、神に感謝せずにはいられなかった。
そして、AARを書かずにはいられなかった。


ブルガリア王国の歴史

ゲームは1279年1月1日に開始。
ブルガリア王イヴァイロ
貧農出身だが、義勇軍を率いてモンゴルを撃退し、次いでブルガリア皇帝と貴族も追い払った。
史実ではモンゴルとビザンツの迎撃に追われ、留守中に貴族に反逆され、モンゴルに頼ろうと向かった先で殺されてしまう。

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(ゲーム開始時の周辺情勢)

今回のプレイでは、面白味はないが安全な策として、即座にビザンツに臣従した。
ジョチ・ウルスから独立したロシアの公爵たちに対して次々と Force Vassalization の戦争を仕掛けて家臣化することで、急速に勢力を拡大させた。

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(126年後、1405年のビザンツの版図)

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(ブルガリア王国の版図)

目標はオリジナル帝国としてブルガリア帝国を作って名実ともにブルガリア皇帝となることだが、Force Vassalization には1000の威信が必要で、そのために歴代の王はオリジナル帝国に必要な8000の威信を得ることができなかった。
しかし、これまでの領土拡張の過程で作成可能になった王や公爵の称号が貯まり、金銭も1万以上貯めたことで、称号を一挙に作成することで大量の威信を得るめどがついた。
現在の王は先王が暗殺されたことで8歳で即位し、現在27歳。
すでに4500の威信があり、皇帝即位は射程圏内。

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(5代目: ベルタラン)

ただ、ルーム朝とマムルーク朝の反則的な強さが独立をためらわせる…。

モルドバ公爵

家臣の中で思い出深いのは、モルドバ公爵。
ウラジミロビッチ家は架空の家系で、リューリク家の主人が自動作成したものらしい。
初めは部族だった。

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施設建設を手伝ってあげたら、2代目のニキータでめでたく封建化。
この人物がオーガナイザー持ちで、30歳代から80歳代まで50年に渡って指揮官を務めてくれた。

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(2代目: ニキータ1世)

初めは武勇値10だったが、どんどん上昇して最盛期は21。
Inspiring Leader 特質も得た。
初めは行軍にしか使わなかったが、だんだんとそのまま実戦に投入するようになった。
それでも負傷することはなかった。

領土を与えすぎて Powerful Vassal にならないよう注意しつつ、最大限に報いてきた。
それなのに、現在の国王ベルタランの成人直前に王権低下の派閥に加わった時は大いに恨んだが…。
ただ、今回のプレイでは皇帝になっても総督制は導入しないつもりだったので、王権低下はそれほど痛手ではなかった。
(総督制は、有益な人物を選ぶだけの作業になってしまって、家臣の家系に愛着を持てなくなってしまうから…)

今回のルーム朝との激突の直前に亡くなってしまったので、彼の息子を中央軍の指揮官にした。

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(3代目: エメリヤン)

エメリヤンもオーガナイザー持ちだったので、ニキータが亡くなった後も行軍には困らないと安心していた。
しかし、トラペザスの戦いで討ち死に。
跡を9歳のニキータ2世が継いだ。

今回のプレイでは将軍を無秩序に招くのではなくブルガリア人を、または異国人ならば入婿として招くという縛りを設けている。
ブルガリア人の国、という雰囲気を保つためだ。
オーガナイザー持ちはもともと希少だが、この縛りでますます貴重な人材となっていた。
しかも思い入れのある家系の人物が討ち死にしてしまったことで、戦闘経過の画面を眺めながら落ち込んでいたのだが、それだけにスルタン捕縛の報は嬉しかった。
ウラジミロビッチ家には、今後も目をかけていくつもり。

男女同権

現在のブルガリア王位は、男女同権の長子相続制
これには理由がある。
2代目のトリピミールの子や弟の子が女子ばかりで、Female Ruler と Female Heir のペナルティが長く続くと予想されたからだ。
開始年代が遅く、Torelance の技術は初めから高いので、10年ごとの法改正では女性の権利をどんどん上げていくことにした。

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男子が全くいない状態なので、娘たちには婿養子婚をさせた。
そんな中で、意外な副作用があった。
3代目のボグナの夫がエルサレム王になったのだ。
武勇が高くて婿養子婚に応じてくれる人間を選んだだけだったのに。

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ただ、嬉しいことばかりではなかった。
婿がエルサレム王位を継承した後に生まれた子どもたちはフランス文化のカトリックになってしまった。
婿には先妻との息子がいたので、婿の死後、王位は彼が継いだ。
それでも長男と次男はエルサレム王位への強クレームを得たので、3代目のボグナが長男を王位に据えるべく継承戦争を仕掛けたら、長男がエルサレム王となった途端、ブルガリア王の後継者が次男になってしまった。
どうやら国外継承を禁止しているらしい。
エルサレム王国はビザンツ臣下とはならず、依然として独立国のまま。
これは受け入れられないのでリロード。
戦争は長男自身がブルガリア王となるまで待つことにした。
すると、その前に今度は長男がトリポリ伯爵を継承。
マムルーク朝の臣下の、だ。
そして今回もブルガリア王の後継者は次男に。
今度ばかりは諦めた。
その後、長男はレバント文化、次いでスンニ派へと変わっていった…。

ここで新たな問題が。
次男で4代目のトリピミール2世の子供が次々と夭折。
スンニ派の甥っ子たちが後継者リストに挙がるようになってしまった。

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継承後に改宗すれば問題ないが、何らかの事情でそれができずにいるところを皇帝から剥奪されたりしてはたまらない。
そこで、少しでも甥っ子たちを継承から遠ざけるために、男女同権の継承法を目指すことにした。
しかし、エルサレム王国を乗っ取った後、元エルサレム王の公爵の陰謀を暴いた際に運悪く逮捕に成功してしまい、仕方なくそのまま剥奪したために家臣のオピニオンが低下。
4代目のトリピミール2世の代での継承法変更はほぼ不可能になった。
さらに王が(おそらくイベントによって)暗殺され、5代目のベルタランが8歳で継承することになった。
成人直前に派閥に屈して王権を下げるという屈辱も味わった。
ロシアはあらかた征服してあるのでシチリア方面に軸足を移し、50%を支配下に収め、シャルル・ダンジューの血を引くヴォーデモン朝からシチリア王位を奪ったところでルーム朝がグルジアへ侵攻し、今回のトラペザスの戦いに至る。